知的自立―理性的に自らの人生を開拓する

加筆修正の履歴

2026/01/22 社会や人生にとって本当に大切なものを見つけたいなら―を読みやすいように修正しました。
2026/01/21 感情を刺激された先にある情報を脳が―の一節を追記しました。

目次

勉強の第一目標は知的自立―建設的な思考の積み重ねを知ること

 知的自立に改めて触れます。勉強は「知識の獲得」が強調されることも多いのですが、獲得した知識だけで語ると無駄な時間と言いたくなる面が生まれてしまいます。例えば、高校数学の微分積分なんて将来使わないという話題。これは半分正しく、確かに微分積分を直接的に使う人はほとんどいません。しかし、微分積分といった抽象度の高い事柄を理解し、問題を解けるまでの思考力を身につけることは生涯にわたって役に立ちます。好きなもの、理解できるものの知識だけで生きられるならそれに越したことはないかもしれませんが、現実には社会(他人)からの要求によって様々な事柄を覚えたり、理解したり、組み合わせたりする必要があります。思考力が足りないばかりに覚えられない、理解できない、組み合わせもできないという状態になったら何も生み出せないかもしれません。

 受験勉強は志望校合格という目標に支配されるため、受験勉強によって成長した思考力に注目が集まることがあまりありません。言語化もしにくい。ですが、勉強によって成績を伸ばす行為は紛れもなく建設的な思考を積み重ねた結果であり、本来誇るべきは思考力(生産作業)の部分にあります。受験勉強は常に「入試問題」を対象に思考しますが、「」がどんなものに置き換わろうとも、思考の対象となる以上は一定のパフォーマンスが見込めます。ただ、繰り返すようですが、これが単純な知識の獲得に終始している場合、本当に文字通り受験勉強によって入試問題が解けるようになっただけという変化にしか至らない場合があります。だからこそ入試標準程度までの思考訓練によって応用力を身につけるまで求めたくなるわけですが、興味のある分野で考え抜く経験を積めるならそれも悪くありません。単純な知識の獲得に終始するくらいなら、楽しみながら考えさせてくれるゲームを推奨しても良い。それほど知識というよりは知恵、建設的な思考に至るかどうかを重視しています

「少し難しい事柄を理解する経験」は大人でも遅すぎることは全くありません。社会では“子供の頃にできなかったから大人になってからもできない”という思い込みが構造的に発生しやすいのですが、子供の頃の発達速度による差が解消され、生物的にも成熟した大人になってから改めて取り組んでほしいところがあります。社会は早熟に優しく、晩成に厳しい。実際のところはやってみないとわかりません。それに上手くいかない中で考える経験を積むだけでも成長に寄与します。

 人間は日常的に大なり小なりの問題解決を繰り返しますから、思考力は人生の質に大きな影響を与えます。社会に自分の居場所をつくることも、夫婦や友人とのより良い関係を構築することも全て思考力が一つの土台になっています。思考のブレイクスルーは理性優位の価値に気づくとも言い換えられるもので、感情が自分の檻に閉じ込めようとするのに対して、理性は世界に引っ張り出しますから、社会を生きる上での建設性には雲泥の差があります。例えるならそれは資本家階級と労働者階級のように、勉強の有無によって理性的階級と感情的階級に分かれてしまうような話。それぞれ見ている世界が全く違います。もちろん、誰もが理性と感情は混在していますからこんな単純な話ではないものの、理性的に生きるとは思考と行動を適切に“積み重ねられる”ということであり、それは人間として不可欠な生き方と言っても過言ではないものです

 究極的に勉強は「わからないことがあったら調べる」ができれば誰でもできます。強いて挙げるなら最低限の国語力があれば、現代は優れた参考書やAIもありますから独学でもとことん成長できる環境があります。学校教育は様々な工夫が施されているものの、構造的に受動的な知識の獲得にどうしても偏らざるを得ないため、(一部のトップ層を除いて)思考力の成長は物足りないところがあります。受動的だと驚くほど伸びません。そして、理性優位の習慣に繋がらなかった結果、社会(大衆)は感情優位、かつ自分の中に答えがあると思い込む、すなわち世界(他人)への学びの意識を欠いた人々で溢れてしまうわけです。これはいまだに空虚な製品やサービスが売れてしまう事実からも認めざるを得ないと思いますし、アテンションエコノミー時代によりいっそう大衆の感情を刺激して檻に閉じ込める行為が加速しました。社会や人生にとって本当に大切なものを見つけたいなら、あらゆるものの中から冷静に価値を見分ける力が必要です。だからこそ勉強によって目指すものは学びの充実と思考力向上による「知的自立」と結論づけたくなるのです。

単純な知識であっても大量に獲得すれば、知識同士がいつの間にか結びついて構造化する=思考のブレイクスルーが起こるのですが、そこまでの量を確保するのは受験勉強以外ではなかなか大変です。ただ、大人になって様々なことを経験し、経験から学びを得られるだけの思考力があれば、上記のような考え方には自然に至ると思います。その意味でも大人の方が勉強には向いていて、さらに社会的に重要な意思決定を行う立場(他人の人生を左右する)に置かれやすい以上は子供よりも勉強してほしい存在と言えます。

意見をぶつけ合うよりも学び合うこと―共同生産のすすめ

 政治的、経営的、専門的な判断では意見をぶつけ合うことも必要ですが、一般人レベルの大半の事柄は意見をぶつけ合うよりも学び合う姿勢が結果的により良い結論を導くと考えています。なぜなら、知らないことが多すぎるからです。感情に囚われると、学ぶよりも意見をぶつけてしまう。自分の中に答えがあると思い込むまでが常態化します。

「AならばB」といった直線的な答えは世の中にほとんど存在しません。人間が関係性の中を生きるように、ほとんどの対象は構造の中にあります。構造の中にあるというのは簡単に言えば、前提となるAが常に複雑であるということ。しかし、言葉の性質が直線的、かつ面であるために、思考力を駆使して背景を読み取るなどして、構造を意識しないといつまでも本質を捉えられないのです。

 私はいつからか個人の世界観や言葉にそこまで大きな期待を持たなくなりました。それは様々な分野について学んでいくほどに個人の限界を知るからです。こうした文章として書き起こす私の世界の一部も、率直に大した価値がありません。ただ、それは個人のそれらを否定するわけではなく、全体としてのほんの一部分である等身大の価値に収束したということ。言い換えれば、自分がそれまでに囚われていた世界というのはあまりに小さく、にもかかわらず感情を入れ込んでいたのです。

 また、世の中の真理、絶対的な正解があるとして、そこから個人の世界の切り取りを評価したら間違いだらけかもしれません。だからこそ自然科学的な手法で再現性のある客観的な答えを導く営みがあるとも言えますし、そうした手法でもない一般人にとっての「考え」というのはどこまで評価を高めても有力な仮説の域を出ません。ゆえに特定個人の意見への賛成・反対といった態度、とりわけ自らの感情を強化する志向性にはリスクが伴い、であるなら分析の対象として終始すること、つまり学びの対象として扱い続けることの方が圧倒的に大切だという考えに至っています。私のこうした文章にしてもそうです。より良い結論を導くための仮説、きっかけに過ぎません。「〇〇は自分の考えに近いが、△△は少し異なる。この人は何を前提にしているのだろう。私との違いは何があるか。感情が先行していないか。もし□□という要素が加わったら結論は変わるか。自分の考えにどこか見落としがあるのか。この分野は無知だから少し勉強してみよう……etc」という材料です。

新たな問いを立てることが前進であり、個人の答えに引っ張ることは停滞なのではと疑っていると言っても良い。これはAIの登場によってさらに感じています。ただでさえ狭い個人の視野も、感情に囚われたら盲信という危険を呼び込んでしまいます。他方でビジネスでは、時として個人の檻の中に無理やり閉じ込めた方が儲けられるとなってしまっていることが全体で見ると歪みとも言えるのだろうと思います。

 しかし、大衆は「AならばB」といった直線的な答えを求め、感情で動き、挙句に固執してアイデンティティの形成まで至る人もいます。言葉に振り回されやすく、感情で動くと自己防衛的、すなわち極端な同調か、対立するしかありません。私たちが当たり前に使用する「言葉」も疑ってみれば、その不完全さに気づくはずです。思考は関数的とも述べた通り、人間の思考は前提に新たな要素が加わるだけで結論は簡単にひっくり返る可能性があります。時に科学論文でさえひっくり返されることある中で、個人の考え(言葉)にはもっと適切な評価を与える必要があります。適切な評価を与えられない原因の一つは感情。感情によって歪み、引っ張られるからです。それが時代の流行や熱狂を生む一方で、負の側面としては無意味で不毛な対立が発生します。

 いつでもより良い結論を導くために前提を充実させ、論理で客観的に導き、結論を検証すること。「AならばB」が自分の感情に沿ったから飛びつく、あるいは沿わなかったから意見をぶつける態度は、勉強の先にある適切な思考的態度とは言えず、自らのどこかで得た知識をむやみにアイデンティティ化、そうさせてしまう精神状態によって視野を狭めている損失の多い態度です。「実際のところはわからない」という態度は頼りなく映るかもしれませんが、いくつかの要素から変化のできない結論を導く危険性に比べたら誠実と思います。一言で言えば「何事もすぐにはわからないのだから一緒に学び続けましょう」ということです。

人間は感情の揺らぎが生を実感させるのでしょう。他人の意見と対立すれば、自分の存在感が増したと錯覚し、感情の揺らぎによって生を実感します。それはあらゆる対象を“面”で捉えている人ほど陥る態度であり、思考だと思います。構造的に捉えられたら、学ぶ部分が必ず見つけられます。面で捉えてばかりだと精神的な負担にもなりやすく、この意味ではメンタルの弱さが勉強(=世界)を拒む原因にもなります。

人生の多くの時間を建設的な解決と創造に使ってほしい

 他人に執着したり、感情に振り回されたりすると自分の人生をいつまでも生きることができません。感情に囚われてる人々に「言葉」という理性で説いても自己防衛が働いて意味はないかもしれませんが、これは事実です。現代はスマホ依存、インターネットの世界は感情に囚われやすい人にとっては危険な場所になっています。SNSのアルゴリズムの問題にしてもそうですが、目の前の状況を冷静に分析し、長期的な視点から自分自身への是非を検討できない人はどんどん依存します。全体として感情的になりやすい人たちが集まり、執着し続けることになるわけですから、理性的な人たちは離れていくか、限定的な情報収集に留まるでしょう。それもまた社会的な場の一つとして有効活用できるごく一部の人を除き、ほとんどの人にとって貴重な時間を注ぐ場所は別にあると言うべきか、そこに思考と感情が最適化するリスクをよく考えなければなりません。

感情を刺激された先にある情報を脳が“重要なもの”と誤認してしまうのも大問題です。単語の覚え方にて述べている通り、人間の脳は感情を刺激されるとなおのこと、むやみやたらに自分自身と関連づけを見出すところがあります。その結果として脳のリソースを浪費し、集中力が低下、勉強が手につかなくなったら危険です。

 現状の世界が建設的な対話が行われる場ではなく、感情的な対立ばかりになっているとすれば、この時代を生きる私たちがやるべきことは感情的な対立を避けること。そのためのわかりやすい結論は理性を優位にする勉強(学び)に取り組むことです。私も含め、ほとんどの人は勉強不足である事実を認め、より良い対話ができるように学び続けることこそが人生と言ってしまった方が建設的な気がします。心で悩んだら、心理学や精神医学、哲学なども良いかもしれません。データの扱いに精通したいなら統計学、それ以前の高校数学も学べば良い。子供のことで悩んだら、教育学や児童心理学もあります。人生の彩りを増やしたいなら芸術学も良い。自分を振り回すような感情の全ては、学び(理性)の原動力に変えること。大人の学び直しでは、様々な分野へ学びの橋を架けることに非常に大きな意味があります。

人間関係においては理性的な態度から、感情も含めた相互理解を試み、お互いに唯一無二の理解者となるところに最大の喜びがあるのではと思っています。例えば、昨今は結婚の契約的な面が強調されている気もしますが、超長期的、かつ親密な関係は夫婦特有であり、そこにこそ唯一無二の理解者になれる機会が存在しているはずです。身近に言えば、こうした文章を読んで理解してくれる人がいるだけでも嬉しいわけで、それを何百倍にも延長した関係には言葉にできないほどの価値があります。これもまた思考が創造する価値と思います。

 ただ、一つ補足すると、多くの人にとって必要なことは勉強(学び)ですが、本当の根本的な部分は愛情なのかもしれないとも思います。なぜかというと、勉強は他人を尊重(=信用)して受け入れることと等しく、愛情が培われていないと本質的に機能しない恐れがあります。ということはですよ。理性的に生きることを目指しながらも、何よりも大切なものは感情の中にあり、その部分も育むこと、端的に言うなら人間同士の温かさ(=優しさ)が社会を底から押し上げる力になると言っても良いのかもしれません。そう考えると、例えば両親や学校、学習塾、予備校の先生、はたまた赤の他人から学び得たいものはその温かさと知(理性)という結論にもなります。これは冷静に考えたら当然のことで、いくら試験で高得点が獲れる先生でも、危うい人間性には我が子を預けたくないですよね。共通テストの得点が良かろうが悪かろうが、心身が健康であればまたチャンスは巡ってくるわけで、そう思える精神性の源は“温かさ”なのかもしれない、その源を阻害してはならないということです。話が脱線している気もしますが、要するに私たちにとって大切なことは愛情を土台に学び続けること。その連鎖を生み出すこと

感情そのものは人生に不可欠です。ただ、制御不能に陥りやすい欠点が良くも悪くもあるため、いかに理性によって制御できるかが重要になります。勉強による理性優位の習慣も、一定以上進まないと感情を制御できるだけの力になりません。勉強は単なる知識の獲得というイメージから行動の選択肢として選ばれにくくなっていることがもったいなく、例えば学ぶ姿勢には必ず謙虚さが付随しますから人間関係を楽にもします。勉強の目的は「知的自立」と「理性優位の習慣化」と考えると、趣味の一つにしたくもなりませんか。勉強のおかげで他人に優しくなり、信頼を集め、自分自身にしかできないことも見つかるという素晴らしい循環もあります。

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