加筆修正の履歴
2026/01/08 Q&A―思考は感情的か、理性的か?を追加しました。「人間の感情と理性の輪郭」にて勉強が理性的な行為である説明の一部を修正しました。
2026/01/07 Q&A―頭が良い人ほど理性的か?の最後「この態度―」が指し示すものをわかりやすいように「感情的な態度―」とその他読みにくい箇所を修正しました。
はじめに
需要がないことは百も承知なのですが、参考書情報とは別に「考えてもらえる記事」を実験的に書いてみたいと思います。勉強の根本は「考えること」ですから、調子に乗ったことを言えば、この記事を読むと何らかの気づきを得られます。しかし、悪く言うと単なる個人の雑記に近いもので時間の無駄です。最後まで読んでいただけたら嬉しく思いますが、変わらず参考書情報を読んでいただけるだけでも幸いです。
なぜ、書こうと思ったのか。AIに代替できない価値を求めたことと、社会的に意義のある問いを立てたかったからです。なぜ、そんな問いを立てたかったのか。人間の関係性から生じる歪みが多くの不幸(≒社会的なコスト)を生んでいる現状に大いに疑問があったことと、それに対しての個人的な解が誰かの役に立つ可能性があったからです。それと少なからず勉強に関心を抱く人なら読んでもらえる期待が大きかったのも理由の一つにあります。とは言え、読み手側にはAIによる整形を前提に読んでほしいと思うくらいに、自分で書いていても読みにくくて褒められる内容ではありません。ちょっとしたバトンのようなものだと思ってください。
そして、今回のテーマは「理性を優位にする勉強という営み」です。人間の感情と理性に着目しながら思考と行動について語っています。
前回の記事にて「思考的な態度を改めることも勉強の意義の一つ」と述べました。これは言い換えると、理性を優位にすることが人間関係においては必須と言っても過言ではないということ。感情は自己に帰属する概念のため、非常に強いバイアスが自己に作用し、本質的に他人とも相容れません。簡単に言うと、感情的な人との関わりを誰しも避けるでしょう。一方、理性は自己というよりは世界(=客観、他人)に帰属する概念としています。勉強は自分の頭の中を訂正する作業、それは世界(客観)を参照して自己を改めることになります。世界が軸。ゆえに感情と異なり、自分と他人との間の摩擦が小さく、人間関係においては重要な状態です。理性的な人、イメージしやすいように余裕のある人と言っても間違いではありません。人間関係においては常にそうした人が好まれていることを皆さんもよく知っているはずです。こういった点について今回は綴っています。
人間の感情と理性の輪郭
人間は何も学ばなければ動物と変わらないと述べました。それは産まれた直後を言えば、動物そのものと言っても差し支えない状態です。自分勝手で感情の赴くまま行動し続けますよね(動物的≒感情的)。そして、そこから徐々に世界(他人)を感じ、自分以外の存在との関係性の中を生きるようになります。世界にいる自分を自覚。自我が目覚めた頃には当たり前になっている感覚ですが、私たちは常に何らかの関係性の中を生きるしかありません。そうした関係性の中をより良く生きるために読み書きをはじめとした様々なことを学びます。この文脈ではその能力、感情に対比する概念を「理性」としています。
ここまでの前置きは実際にそうなのかどうかよりも、個人が誕生した後の理性獲得のイメージに繋がったら十分です。(実際は同時並行的ですが)感情が先立ち、その後に少しずつ理性を獲得して感情と理性の混合物のような存在になっていくということ。理性は後天的に身につけ、その割合を増やしていくとも言えます。このことからは勉強の意義を「理性を獲得するための営み」と言っても問題ありません。なぜなら、感情による奔放な自分を何度も正すことを繰り返すからです(思考の修正作業)。正解は常に世界側にあり、自分勝手な答えを答えとしてはいけない、世界と同期する作業と言って良いでしょう。なお、この場合の勉強は「学び」と言ってもいい広義の勉強をイメージしてください。世界(他人)からの学び全般。
ここで一つ補足すると、他人との関係性における態度は勉強のプロセスによってのみ支えられているわけではありません。人格や性格と呼ぶ理性とは区別されるものにも、むしろその方が重視されていると思います。頭が良い人が優しいとは限らないけれど、性格が良い人は優しいことがより多くイメージされるということ。なので、本質的に関係性の態度を語るなら人格や性格といった話をするべきではあるのですが、その形成に関わる話は複雑でなかなか語れないというのもありますし、人間を感情と理性の混合物とシンプルに措定したとき、理性から語ることが人格や性格を間接的に包含している、つまり頭が良い人が優しいとは限らないけれど、優しい傾向がある、あるいは世界(他人)からの学びによってより良く形成されるなら価値のない話にはならないだろうということです。
感情が先立つ論理に意味はあるのか
人間は感情と理性の混合物であると述べた通り、感情というのは常に理性にも働きかけています。理性を巻き込んでいると言った方が正確かもしれません。瞬間的に感情と理性が忙しく入れ替わり、自己防衛的に働く感情は人によって些細な刺激で暴走します。感情をコントロールする、感情的になったら負けと言われるように、感情というのはそのまま放てば相手を傷つけかねないと想像されるものです。
言葉は客観性の高い理性の領域に分類できるものですが、感情を言語化するといったように感情が土台にあって表現されることがままあります。美味しいものを食べたときに「美味しい」と言うような具合にです。こういった日常の些細な表現なら何も問題はないのですが、例えば意見の主張や科学論文などにおいて、感情が先立つ論理に意味があると思いますか。好き嫌いといった感情ありきで結論を導こうと論理を利用しても、導かれる結論は論理の中立性や客観性を無視した、要するに感情によるバイアスのかかった結論に大きく歪められることが大半です。簡単に言えば、嫌いな人の意見は全て否定したくなるということ。否定ありきに論理を紡いでも、それは個人的な感情を大人なりに装飾しただけと言っても過言ではありません。
なので、そういったバイアスに対して自覚的にならないと、本当の意味での論理性(中立で客観的)には“永遠に”至らないのです。自分自身に備わるバイアスを逆方向から修正するような意識や思考を引き出さないと、いつまでも感情に振り回された結論を導くだけになります。しかもその事実に一生気づけません。一生です。勉強によって知的自立、生産性(建設性)のある思考作業に至るという話はここに繋がっています。
他人の文章を読むときに自らの感情を極力排除して読むことも同じです。自分の感情に囚われたまま読むと、その感情に沿うかどうかが全て、感情(自分)に沿うようにどんどん歪んでいきます。そして、おそらく感情には建設性がありません。理性によって建設性を与えないといつまでも同じことを繰り返します。言葉だけでは危険性が伝わらないかもしれませんが、人間関係においては嫌いな対象に執着すると同じ。極めて非建設的な行動に繋がっています。その上、自らのバイアスの影響を強く受けた結論を信じ切っているわけですから、さらなる偏った結論を連鎖的に導いていきます。自分の中に正解がなく、世界(他人)にあることを思考に組み込めないだけで凄惨な事件に繋がりかねないのです。
感情がより良い人生を導くとは限らない―理性的な生き方のすすめ
感情は自己防衛的で短期的な思考(衝動)を生み出しますが、肉体的・精神的な生存を考える上では仕方のないところもあります。例えば「怖い」という感情がなければ、危険な状況を素早く察知できません。「嫌い」という感情がなければ、自身の精神的安全を確保できなくなります。「喜び」の感情がなければ、人生は楽しくないでしょう。ゆえに感情は無い方が良いというわけでは全くなく、その性質を考慮して上手に付き合うべきものです。その性質の一つが感情をきっかけに展開される短期的な思考。感情を刺激された人間は衝動買いしてしまったり、反射的に言い返したり、同じことを繰り返したりと目先の問題を無理やりにでも解決することに意識と行動が集中します。
しかし、そういった短期的な思考によって展開される行動は、人生という長期的な物事においては損をすることが珍しくありません。例えば、ジャンクフードばかり食べたら短期的には幸せですが、長期的には太って不健康になります。SNSやギャンブル、アルコール依存、優先順位を考えられないなども同じ。心身の健康や人生そのものを阻害しかねない行為に依存してしまう理由は、この文脈で言うなら、感情に振り回された短期的な思考によって長期的な損得を考えられないからです。そのうち思考すら介在しない“習慣”になりますから、よりいっそう抜け出すことができません。こういった問題が次々と現れる上に、そうした人間が親になったとしたら個人の不幸に留まらない不幸を生み出しかねないのです。
では、そうした事態を避けるにはどうしたら良いか。それは一時的に感情を切り離して理性的になること。では、理性的になるにはどうしたら良いのか。勉強(学び)です。勉強は「理性優位の営み」ですから、簡単に言うと習慣化によって冷静に考える自分を引き出せるようになり、些細なことで感情的になることが減ります。賢い人は無視ができる。しかも社会的に価値ある分野の基礎知識を含んでいるため、新たな価値を生み出すきっかけにもなります。勉強は教科書を見てもわかる通り、非常に優秀な先生たちが慈善事業に近い形で還元してくれています。何だかよくわからないセミナーに何十万円とお金を払うくらいなら、そういう還元してくれた知を活用していく方が賢いでしょう。それにどういう形であれ、積み重ねによって中身をつくらないと、空虚な製品やサービスを押し売りすることになりかねません。それもまたビジネスという考えには個人的に反対です。
そして、世界(他人)をできるだけ正しく認識すること。人間は世界を自分の見たいように見ようとしますが、それは関係性の中では非建設的に作用しかねません。感情と理性の混合物である自覚から、感情と理性の距離を保ち、自分自身の歪みと向き合うとき、健全な思考を少しずつ手に入れて建設的に生きられるようになるはずです。言い換えると、自分から見た他人は自分の色眼鏡によって歪んでいます。その歪みをお互いに取り除かないと、他人とのコミュニケーションが真に成立しません。他人とのコミュニケーションが成立しないと、自分一人で課題解決と創造に挑むしかなくなります。私たち人間は常に関係性の中を生きていますから、理想は他人との協力を高い次元で行い、自分一人では解決できない問題を解決していくことにあるはずです。人生の豊かさを考えても、そういう他人との出会いを期待したいでしょう。だからこそ理性を優位にする必要があり、勉強という営みには価値があると結論づけています。
- 思考訓練によって多くの人間が理性的になれるのか?
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読み書きができるなら、そうした希望を持っていたいと思っています。
- 思考は感情的か、理性的か?
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感情が理性を巻き込むのではなく、感情と理性が思考を取り合うと言った方が正確だったかもしれません。理性的になるとは、理性が先立つ思考を展開すると言い換えられます。つまり、感情と理性はそれぞれ独立した概念で相互に影響しているのではなく、思考が感情と理性の両方から影響を受け、その結果として私たちは言葉や論理を紡いでいるということ。しかしながら感情は思考を介さないことがままあるので、感情的な思考という言い方はどこか矛盾している気もします。例えば、売り言葉に買い言葉のように、思考を経由しない言葉は反射的に危険を避けるのと同義です。これは自ら言葉をつくっているわけではありません。それがほとんどであって、完全にとは言えないあたりが難しいところです。
- 感情的な相手に対しても理性的にならないといけない?
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それを理想としています。お互いに感情的になったら自己防衛を繰り返すだけで不毛だからです。しかし、現実に他人の感情を受け止めることは精神的な負担が大きいため、相手を落ち着かせたり、難しければ時間を置いたり、感情を引き受けない術を学んだり、それでも無理なら関係を絶ちます。感情に引っ張られないようにするだけでも大変です。ちなみに人間関係は理性的な側が損をしやすいので、理性的な人ほど孤独を好む気がします。
- 理性的な生き方は本当により良いのか?
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何を前提にするのかにも依りますが、「人間は世界を自分の見たいように見ようとしますが、それは関係性の中では非建設的に作用しかねません」と述べたことからも、個人は概念こそ独立した存在と定義できるものの、現実には独立していない状態でしか存在できないことを強調しています。であるなら、個人は理性によって相互に調整しないと全体として最適にならないと直観しているのだろうと思います。こんな単純な話ではありませんが、適材適所の結果として個人は報われるということ。しかし、そんな言い方をせず、あくまで私の見ている世界が感情による歪みによって不本意なコストを支払わされていると感じているだけかもしれません。
- 頭が良い人ほど理性的か?
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その傾向はあると思います。難解な事柄の中には直感に反するものもありますし、自分自身の感情とは距離を置かないと到達できない思考の境地があります。ただ、頭の良さとは何かと言われると難しいところなので、皆さんの周りにいる知的で尊敬できるような人と言葉を濁しても良いでしょうか。
それでも一つ挙げるなら、世界からの学びを応用する力に関連して、やはり多様な要素の中でも結論を焦らず、バランスを保てる思考の体幹がしっかりしていると頭の良さを感じます。構造的に捉えられる分、自分の立ち位置が明瞭でバランスを保ちやすいのかもしれません。感情的になるというのは、いわば思考を放棄して結論をすぐに断定してしまうような態度です。これは構造的とは真逆で、単なる面として捉えているということ。ちなみに感情的な態度は狭義の勉強では成績が伸びないことが経験的に証明されていますよね。
- 狭義の勉強ができる人でも感情的になってばかりの人はいる?
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もちろん、います。当然のことながら感情的になるかどうかの要因は他にもたくさんあります。例えば、感情のコントロールは前頭前野が中心的な役割を担っていると言われ、老化や喫煙、その他の要因によっても衰えます。まだまだ未熟な子供はコントロールできなくてもおかしくありませんし、いわゆるキレる中年の例もあります。先に述べた自尊心の構築一つでも変わりますし、精神的な成熟度や性格、心の余裕も影響します。感情的になることへの罪悪感や損失の理解に至るかどうかも分岐点になりそうです。
あくまで勉強による恩恵は理性的な時間を増やし、自分も含めたあらゆる対象を冷静に捉えることにあります。難解な事柄を理解するには粘り強く考えなければならず、そういった経験(時間)が長く続くと必然的に理性的な状態が習慣化するのではということ。それは研究者や棋士を想像するとわかりやすいかもしれません。
- 理性についてもう少し定義した方が良いのでは?
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その通りですが、それを言うと他にも定義しなければならないものがあります。そこまで厳密な主張ではありません。考えるきっかけになりそうな雑記。私の見ている世界の一部を言語化したエンタメとして捉えていただけると助かります。
- 最後に補足することは?
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こうした自分の思考を言語化する営みは広く一般的に行われていますが、誰もが思考の全てを言語化できるわけではありません。ゆえに言語化されていない部分をいかに正確に読み取れるか。冒頭で述べたように、私の認識の枠組みや伝えたい意味などを慎重に考えていただけると嬉しく思います。



